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Re: 2011年 7月 9日

 投稿者:  投稿日:2017年10月20日(金)06時28分1秒
返信・引用
  > No.1523[元記事へ]

マキさんへのお返事です。

いつの間にかマキさんのご労作、拝読いたしました。
歳月は残酷である、同感であります。

江藤淳をここに最初に持ち出されたのは、プチさん(当時は別名?)でしたかなあ。
よいしょ的(今風に言えばお友達)解説評論が主流のころ、吉行に批判的論考として初めて知った。(相変わらず読んでいない)

吉行の評論に対してのスタンスは、(以下正確ではない)
・褒められれば嬉しいが貶されればやはり面白くはない。
・評論は文芸のなかのひとつのジャンルである。
こうした断片は江藤氏ひとりに向けられているものではないだろうが、一つの大木(あるいは作品群)があり、それを論評しメシの種にしているとすれば、樹にタカル虫、千匹の毛蟲というものだろうと私は考えた。

一昨年私は数篇の小説を書いて投稿し見事落選した、そのなかでご丁寧にも審査員(おそらく下読みさん)からご指摘いただく返信があった。もちろん如何にもと思うところと、余りにも類型的、言うなれば売れる本のマニュアル臭が強いなあと感じた。
ペン先から滴り落ちるものがない、それがないならスーパーコンピューターに傾向と対策を分析させて売れる作品を創ればいいだけである。

以上は私のヤッカミでもありますが、プロ棋士も難渋するAI将棋?に100戦100勝、過去の棋譜をまったく考慮しない?新しいコンピュターソフトが出現したとか、時は残酷なものであります。
 
 

江藤淳氏のこと~「懐かしい人たち」遺文①~

 投稿者:マキ  投稿日:2017年10月11日(水)14時33分23秒
返信・引用
  『懐かしい人たち』(講談社,1994/04/08)は、吉行淳之介さんの最後の著作となった随筆集である。吉行さんと交遊があった人たちについての追悼文、もしくは故人となった人たちとの交遊について記したもの。

それゆえ、安岡章太郎、遠藤周作、阿川弘之等々の、吉行さんよりも長生きされた方々についてのエッセイは収められていない。

機会があれば、吉行さんと何らかの関わりがあった方々について記していきたい。まず、江藤淳氏のことから始めたい。

先日、京都市三条京阪のBookOffで、『工学部ヒラノ教授(今野宏著)』(新潮文庫,2003/07/01)を108円で購入(BookOffは1冊100円と決めているのよ(笑))。本書は筒井康隆氏の『文学部唯野教授』に触発されて書かれたもの。著者の今野宏氏は筑波大学助教授を経て東京工業大学教授を勤めた人。同書「4 文系スター教授(pp.49-61)」に江藤淳氏のことが書かれているのでご紹介。

(引用開始。引用部分は同書、pp.54-57)

江藤淳という名前をヒラノ教授は高校時代から知っていた。100年以上の歴史を持つ日比谷高校は、キラ星のようなスターを生み出した名門校だが、8つ年上の江藤淳氏は、慶応大学在学中に『夏目漱石』(東京ライフ社,1956)を著し、ヒラノ教授が同校に入った時、すでに文壇で注目される存在であった。(略)

名物国語教師・増渕恒吉(ますぶちつねきち)氏は、「日比谷高校100年の歴史で国語三傑は、一が谷崎潤一郎、二が江藤淳、三が(ヒラノ教授と同期の)野口悠紀雄だ」と言ったそうだが、市川三喜、辰野隆、小林秀雄、幸田露伴などの先輩を押しのけて2番というのはスゴイ。(略)

歯に衣着せぬ筆鋒は、(少数の)熱烈な支持者と(多数の)敵を生み出した。また敵と味方を峻別するこの人は、ひとたび敵と見れば容赦なく相手を叩いた。だから吉田教授(注:吉田夏彦東工大教授、専門は哲学)のチャンネルで東工大に呼んでもらったヒラノ教授は、吉田教授を敵視する江藤教授から睨まれてもおかしくなかったはずだ。

ところが周囲の心配をよそに、江藤教授はヒラノ教授に対して友好的だった。それはヒラノ教授が日比谷高校の後輩であることと、自分と敵対関係に立つ心配がない、理系人間だったからだろう。国語の才能とは対照的に、数学に弱いこの人は、数学ができる人をそれだけで尊敬したという説もある。

江藤教授のような天才を、凡人の常識で批評することは控えるべきだろう。しかし“富士は遠きに見て思もの”の言葉どおり、至近距離から見るこの人は、かなり“ディフィカルトな”人だった。

その最大の原因は、文学者という職業に対する並はずれたプライドである。文学者は、たとえば社会常識に外れたことをやっても大目に見るべきだ、という信念は、しばしば“おやおや”と思わせる言動を引起こした。

2つ目は、権力とお金に対する常任離れした感覚である。評議員ポストに対するギラギラの意欲はご愛敬として、懇親会費の不払いや、高齢女性事務官を慰労すると言って、レストランに誘い出し、支払いは“割り勘”というのは如何なものか。

敵に対してはもちろん、意に染まない助教授や助手に対する過酷な仕打ちや、教室を抜け出そうとする学生に、チョークや椅子を投げつけるなどの過激な行動は、しばしば物議をかもした。

文系の若手教官は折に触れ「88年問題」を口にした。永井・吉田両教授という重石(おもし)があるので、今のところはこの程度で収まっているが、2人が定年で辞めたあと、江藤教授の独裁・恐怖政治が始まるのではないか。これが88年問題の核心である。(注:江藤淳氏は、1990年、東工大を辞職。母校の慶應義塾大学法学部客員教授を経て、1992年、慶應義塾大学環境情報学部教授となった(@wiki)。メデタシメデタシ(笑))

しかしそれにも拘らず、ヒラノ教授はこの人が嫌いではなかった。天才高校生がそのまま大人になった人、余りにも敵が多いので、必要以上に攻撃的になってしまう人。しかし谷崎に次ぐ天才ということであれば、少々おかしくても、大目に見てあげましょう――。

“直接的な被害を受けてないから、そんなことが言えるのだ”という声が聞こえてきそうだが、どうしてどうしてかく言うヒラノ教授も、主任を勤めた2年間、それなりの被害は受けているのです。

(引用終わり)

「ディフィカルトな人」、「文学者は、たとえば社会常識に外れたことをやっても大目に見るべきだ、という信念」、「権力とお金に対する常任離れした感覚」、かなり手厳しいことばが並んでいるけど、「文学者は、たとえば社会常識に外れたことをやっても大目に見るべきだ、という信念」は私にとっては以外だった。

というのは、江藤淳氏は名著(と言われている)『成熟と喪失』中で、吉行さんを、「作者は「文学」という観念を素朴に過信するあまり、その観念がどのような実生活の荒廃をもたらし得るかに盲目なのである。」と攻撃したから。吉行さんが当時、江藤淳氏のこの一面を知っていたら、「どの口で言ってるんだー」と反撃できたのになー。残念であります(笑)。

江藤淳氏の『成熟と喪失』中の吉行淳之介氏関連の文章は、以下を参照のこと。
Re: 「星と月は天の穴」説について   投稿者:マキ   投稿日:2011年10月10日(月)12時12分55秒
http://8244.teacup.com/ikken_yoshiyuki/bbs/84

上記のエントリーの後、私は「江藤淳氏の不遇感」について書き留めている。
Re: 「星と月は天の穴」説について   投稿者:マキ   投稿日:2011年10月10日(月)18時03分34秒
http://8244.teacup.com/ikken_yoshiyuki/bbs/85

江藤淳氏は、講談社文芸文庫版『成熟と喪失』所収の、「説明しにくい一つの感覚(文末に「平成五年八月初一 鎌倉西御門の寓居にて」とある)」というエッセイの中で、当時の心境を次のように書いている。

「私は、日本の批評家はやはり現代文学を論じなければだめなのだと、骨身に沁みて感じていた。江戸儒学や近松、上田秋成などの再検討を行おうとした『文学史に関するノート』は、文壇的には全く無視され、たまに取り上げられても揶揄の対象になるばかりだったからである。」(同書p.252)

「成熟と喪失」は「文藝」の1966年8月号~1967年3月号に掲載された。当時は「文壇」という言葉がまだ生きていた時代で、「文壇=銀座のバーにたむろする作家と編集者たち」というイメージがあった。「文壇的には全く無視され、たまに取り上げられても揶揄の対象になるばかり」という「不遇感」が、「イメージとしての文壇」の象徴的存在(銀座でモテルという噂(笑))でもあった吉行さんに対する攻撃の下地になったのではなかろうか。

「権力とお金に対する常任離れした感覚」と評された江藤淳氏にとって、自分が全く無視されているのに対し、吉行さんが(江藤淳氏にとって)不当に(文壇から)高く評価されていることは、許せなかったのではなかろうか。私の母は宮城まり子さんと同棲していた吉行さんを認めなかったけど、「倫理的に」吉行さんを嫌っていた可能性もある。

大昔、吉行さんが、「(男が)年をとると、ジジー顔になる人とババア顔になる人がいる。ババア顔になるのは嫌だな。」とどこかで語ったことがある。江藤淳氏はババア顔の人だった。

かつてのイタコさんだったら、「江藤淳氏のこと」をどう書くんだろうとふと思う。

吉行さんが亡くなったのは1994年7月26日、江藤淳氏が亡くなったのは1999年7月21日、同じ7月に亡くなられたのは不思議な気がする。

とりあえず今回はここまで(笑)。
 

2011年 7月 9日

 投稿者:マキ  投稿日:2017年10月10日(火)21時50分51秒
返信・引用
  皆様、ご無沙汰しております。

この板に変わってからどれくらいになるのだろうと、ふと気になり調べてみました。

それは、「2011年 7月 9日(土)23時40分33秒 」のことでありました。

もう丸6年が経過し、ishitobiさんも行方知らず(お元気でいらっしゃることを祈念しております)。

時の流れの残酷さに言葉もありません。

記録のために、ishitobiさんのエントリーをそのままコピペしておきます。

掲示板復旧のお知らせ   投稿者:ishitobi    投稿日:2011年 7月 9日(土)23時40分33秒
http://8244.teacup.com/ikken_yoshiyuki/bbs/2

みなさまお久しぶりです。

この数日、ご心配をおかけしておりましたが、

取り急ぎ、掲示板復旧いたしましたのでお知らせします。


ありがとうございました   投稿者:マキ   投稿日:2011年 7月17日(日)00時58分42秒
http://8244.teacup.com/ikken_yoshiyuki/bbs/4

ishitobiさん、先日のメールでは失礼いたしました。

ishitobiさんが書いていらっしゃったように、過去ログが失われたのは残念でたまりません。

プチさん、江口昭宏さん、英さん、その他今はカキコのない方々のエントリーをもう読むことができないとは!

先日、私は母を亡くしました。その時思ったのは「残るのは思い出だけ」ということでした。

I will remenber "プチさん、江口昭宏さん、英さん"

新規まきなおしでがんばりたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


今後とも、変わらずよろしくお願いいたします。



 

Re: 訃報

 投稿者:  投稿日:2017年 8月29日(火)16時56分3秒
返信・引用
  > No.1521[元記事へ]

> > 喘息魔:未収録
> > S先生のこと:未収録

>久しぶりに覗き、皆さんお元気そうでなによりです。
「S先生のこと」は「杉原先生のこと」だったかもしれません。作品ではなくてエッセイでありまして、「わが文学生活」全10巻?潮出版で読んだ記憶です。「エッセイコレクション」にあるかどうかは不明です。
「喘息魔」が作品だったかエッセイだったか、それともそんなヤツ無かったか、今思い出さない。

全集は基本的に作品集ではないでしょうか。講談社全集までは吉行自身が手をいれていますが、新潮版は横山正昭担当とかで月報は安岡が書いた、そうまり子本にあったような気がしますので、少しお節介が入っているかもしれませんね。

いずれにしても昨今、再た出処の元本にあたる、などというのが億劫で記憶頼み、その記憶が怪しくなっているので処置無しですが、全集にあたられるという嵐さんの情熱、やはり荒らしを名乗るに相応しいと感服です。

 

Re: 訃報

 投稿者:マキ  投稿日:2017年 8月10日(木)10時56分57秒
返信・引用
  > No.1520[元記事へ]

古本嵐さんへのお返事です。

> 喘息魔:未収録
> S先生のこと:未収録

嵐さん、レス遅れてすいません。

昨日の東京の最高気温は37.1℃と報道されていましたが、
夏バテなぞされていないでしょうか。

幸い、私の方は何とかやり過ごしています。

全集未収録の作品が結構あるんだと思ってビックリしました。

たしか、新潮社版の全集は80年代にでた講談社版の全集が底本になっているはず。

初期の作品は講談社版をそのまま踏襲したと考えていいのかなー。

年齢(とし)をとるとフットワークがきかなくなって困ります(笑)。

 

Re: 訃報

 投稿者:古本嵐  投稿日:2017年 7月28日(金)07時36分14秒
返信・引用
  > No.1517[元記事へ]

マキさん、河さん、返信ありがとうございました。

本件につき、近くの図書館で吉行全集から拾い読みしようと
行ってみたら保存庫入りになってしまっていて、後回しに
したままになっています。

治療:第1巻(講談社版)
決闘:第2巻(講談社版)

喘息魔:未収録
S先生のこと:未収録

 

Re: 訃報

 投稿者:  投稿日:2017年 6月 6日(火)17時01分33秒
返信・引用
  > No.1516[元記事へ]

> > 『原色の街』サイン本で気がついたのですが、この「石浜」は「石濱恒夫」でしょうか。
> > 付き合いがあったのですね。


嵐さん、マキさん、お久しぶりです。
忙しくて覗くヒマもなかったうちに嵐さんからの質問、それに丁度偶然にも本日マキさんの丁重な書き込みこれ以上付け加えることもないでしょうが、・・・、
といいつつ書くのが悪いクセ。

『決闘』という短編は、なにやら石浜がモデルとなっていないかと考えたことがあります。
もう一つ、『治療』?『喘息魔』?「S先生のこと」か、短編かエッセイだったかも今はおぼろですが、主人公は平凡なアレルギー、吉行の話はそこそこに、さかんに「そのI君を連れてくるように」急かされる、という内容のヤツ。

最近「娼婦小説集成」とかいう文庫本をみつけまして、そういえば、以前マキさんが書かれていたでしょうか。11篇しかないそうですね。
赤線へ安岡と行った話はどこかに書いてあったと思います。当時カリエス?かなにかで腰にチューブをグルグル巻きにしていてそれでも登楼している。

石浜のエピソードはあったかなあ、と今思案中。
石浜か石濱か、吉行はいつも石浜だった気がするのですが、別人ってことはないでしょうね。
 

Re: 訃報

 投稿者:マキ  投稿日:2017年 6月 6日(火)12時19分17秒
返信・引用
  古本嵐さんへのお返事です。

> 『原色の街』サイン本で気がついたのですが、この「石浜」は「石濱恒夫」でしょうか。
> 付き合いがあったのですね。

嵐さん、お久しぶりです。

『私の文学放浪』(講談社学芸文庫,2004)所収の「年譜―吉行淳之介」によれば、「1952年春、安岡章太郎、三浦朱門、石浜恒夫、秋に、阿川弘之、島尾敏夫らを知る」とあります。

安岡章太郎さんによれば、石浜恒夫氏も市ヶ谷駅前の吉行さんのお宅をたまり場にした作家たちの一人なのでした。

安岡章太郎『良友・悪友』(新潮社,1966.7.20)によれば、安岡さんが、三浦朱門、石浜恒夫と知り合ったのは、安岡さんが吉行さんと知り合う一ヵ月前のことでした。同書、冒頭の「二代目達 三浦朱門と石浜恒夫」(同書,pp.8-22)より引用します。

(引用開始)

私が三浦とつきあい出したのは、ある日、突然、彼から会見を申しこまれてきたからだ。
そのころ私は、まだ短編小説を二つほど発表したばかりだったが、その一つは三浦と並んで文芸雑誌の新人特集号に出たものだったから、私も三浦のことは多少気にしていて、早速、申しこみに応じて、日比谷の喫茶店で落ち合うことにした。(略)

「ご紹介しておきます。これ、石浜恒夫君です。『ギャング・ポウエット』・・・・・。しかし人柄はボクと同じ紳士ですから」
三浦は、ちょっと横をふりむいて、そう説明したまま、またもとにもどって、その男と関係のない話しをつづけた。「ギャング・ポウエット」と馬鹿にスゴんだ題名のついた小説と、その青白い顔の男とは、最初なかなか私の頭の中ではつながらなかった。しかし、話の中途でふと思い出して、
「たしか、あれは織田作の未亡人といっしょになっているという・・・・」
と何の気なしに、三浦に向かって問いかけると、その男は、突然、頭を掻きむしりながら、けたたましい笑い声を発すると、
「そりゃ、それはボクのことや」と、大声で言って、それから「ふーッ」と鼻毛のそよぐほど荒い息を一つもらすと、腕組みしたまま、また黙りこんだ。(略)

私たち三人は、その喫茶店で二時間ばかりも、とりとめのないことを話し合ったあげく、午後の銀座通りを東銀座の方へ歩きかけた。京橋寄りの路地裏に私の友人のやっている小さなバーがあり、そこなら昼間でも店をあけてくれるだろうと思ったからだ。しかし私たちは何も飲んでいなくても、すでに酔い心持だったから、通りがかりの婦人を、あれこれ大声で批評し合ったり、勝手なことをシャベっていた。すると三浦は突然、宣言するように言った。

「いや、いまボクは一人の女のひとのことしか考えられないのです。その人のことを思っただけでも、眼の中にパーっと光が射しこんだみたいで、まわりのものが何も見えなくなるほどなんです」
あまりに唐突に、しかも悲愴なほど真剣な顔つきで、こんなことを言われると、私たちはしばらくドクケをぬかれたように唖然として、立ち止まった。
「いったいそれは何なのだね。人妻かね」と訊くと、
「いや、お嬢さんです。まだ学生で、田園調布の家から聖心の英文科へかよっている」
これは、あんまり月並みな話なので、私はかえって笑い出しも出来ないくらいだった。
すると三浦は、さらに重々しげな口調で、
「あの君たち、いま言った女のひとのことは、吉行淳之介には絶対に秘密にしてください。女のことになると、かれは何を仕出かすかわからない男ですから」
と、いよいよ奇怪なことを言い出した。第一、私は吉行も名前だけは知っていたが、顔もみたことはなく、そのウワサをたったいま三浦からきいたばかりだから、その恋人のことを秘密にするも何もない。それに吉行という男が、どれほど達者な色事師かはしらないが、吉行だけを警戒して私たちの前ではのんきにノロケてみせる三浦の態度も、あまり愉快ではなかった。

それから一と月ばかり後に、私は吉行淳之介と偶然、ある雑誌の合評会の席で顔を合わせた。共通の知人として当然、三浦のことが話題に出たついでに、何くわぬ顔で、
「あいつ、何かフィアンセがいるらしいね」と訊いてみると、
「ああ、曽野綾子さんだろう、『新思潮』の同人の・・・・。三浦のやつ、彼女がいるばっかりに、あの雑誌が自分一人になっても出しつづけると、ガンバっているそうだ」と、吉行は、私よりもよほどくわしい事情に通じていた。(略)

何にしても、私たち三人(安岡、三浦、吉行)は一、二度、顔を合せただけで、ひどく打ちとけた気分になった。――それで、これからこの三人に石浜恒夫を加えて、毎月定期的に集合し、おたがいにセッサタクマしようではないかということになった。(略)しかし、この「セッサタクマの会」は、たしか第一回の会合を七月の或る日曜日、東銀座裏のバーでひらいたきりで、おわってしまった。そのころには何も月に一回、日をきめて会わなくても、十日に一ぺんぐらいは顔を合わせるようになり、やがて十日に一ぺんは一週間に一ぺん、三日に一ぺん、と日増しに会う度数がふえて、もはや連日、集会が行われているのと同じことになってしまったからだ。

(引用終わり)


 

Re: 訃報

 投稿者:古本嵐  投稿日:2017年 5月20日(土)16時05分51秒
返信・引用
  > No.1512[元記事へ]

こんにちは。

河さんへのお返事です。

> しかし昭和28年、ここは一旦、吉行石浜などは招待客の数のうちにも入らない豪華絢爛な結婚式だったということにしておくべきなのだろう。

『原色の街』サイン本で気がついたのですが、この「石浜」は「石濱恒夫」でしょうか。
付き合いがあったのですね。
https://www.kosho.or.jp/products/list.php?transactionid=09cb827f5e5ff756951e1b7c0bfe5d4b660bea81&mode=search&search_only_has_stock=1&search_word=%E5%90%89%E8%A1%8C%E6%B7%B3%E4%B9%8B%E4%BB%8B%E3%80%80%E5%8E%9F%E8%89%B2%E3%81%AE%E8%A1%97%E3%80%80%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3
 

Re: 訃報

 投稿者:マキ  投稿日:2017年 2月15日(水)16時27分28秒
返信・引用
  > No.1512[元記事へ]

河さんへのお返事です。

河さん面白く読みました。

レスを1時間もかけて書いたのに、クリックミスで消えてしまいました。

昭和29年の上期で「驟雨」と「遠来の客たち」が争ったことをからめて書いたのですが残念。

昔の私なら書き直すのですが、今はその体力も根性もありません。

どうぞお赦しくださいませ(笑)。
 

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