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Re: 訃報

 投稿者:古本嵐  投稿日:2017年 5月20日(土)16時05分51秒
返信・引用
  > No.1512[元記事へ]

こんにちは。

河さんへのお返事です。

> しかし昭和28年、ここは一旦、吉行石浜などは招待客の数のうちにも入らない豪華絢爛な結婚式だったということにしておくべきなのだろう。

『原色の街』サイン本で気がついたのですが、この「石浜」は「石濱恒夫」でしょうか。
付き合いがあったのですね。
https://www.kosho.or.jp/products/list.php?transactionid=09cb827f5e5ff756951e1b7c0bfe5d4b660bea81&mode=search&search_only_has_stock=1&search_word=%E5%90%89%E8%A1%8C%E6%B7%B3%E4%B9%8B%E4%BB%8B%E3%80%80%E5%8E%9F%E8%89%B2%E3%81%AE%E8%A1%97%E3%80%80%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3
 
 

Re: 訃報

 投稿者:マキ  投稿日:2017年 2月15日(水)16時27分28秒
返信・引用
  > No.1512[元記事へ]

河さんへのお返事です。

河さん面白く読みました。

レスを1時間もかけて書いたのに、クリックミスで消えてしまいました。

昭和29年の上期で「驟雨」と「遠来の客たち」が争ったことをからめて書いたのですが残念。

昔の私なら書き直すのですが、今はその体力も根性もありません。

どうぞお赦しくださいませ(笑)。
 

Re: 訃報

 投稿者:  投稿日:2017年 2月14日(火)06時08分53秒
返信・引用
  > No.1506[元記事へ]

> 文化庁長官というイメージが強くて、朱門氏には作家という印象はない。
> 三浦朱門氏は、「第三の新人」に入れてもらって得した唯一の人ではないでしょうか(笑)。


「25年ころ、『真実』という雑誌の小人数定例会があった。それに毎回しゃらくさい文学少女が出ていた。とにかくナマイキで自分では才色兼備のつもりでいるところも腹が立って許せなくなって、ビールの瓶を女の頭の上でさかさにして、ドボッドボッと流したんだ。終始無言というところがミソだよ。女は腰が抜けたように座っていたが、それ以来おとなしくなった。」

以上は山本容朗氏の「エピソード集」に載っているものである。『真実』といえば、散文の処女作「薔薇販売人」が発表された雑誌であるから、昭和23年ごろのことでしょうか。

このエピソードを読んだとき、私は吉行の周りに文学少女がいたことを知った。それでこの女性が誰なのか気になった。
戦後の吉行氏の周りに娼婦以外に女性の影は乏しく、いや、それより私の知識が乏しかったせいもあり、曽野綾子氏の名前しか浮かばなかった。しかしそれは全く根拠のないことである。

後年、「世代」に出入りしていた女性(これは津田塾の岡富久子?、のち出版社勤務だったか)、一緒に連れ込み宿の大部屋に入った女性(これは二行の出典の女性詩人だった記憶)、「廃墟の眺め」に登場する女性など、戦後吉行さんの回りには、いわゆる悪友たちだけでなく文学的女性も結構居たのだと感じたことである。

吉行さんは三浦朱門の結婚式に出席している。それが分かったのは『贋食物誌』「蟹③」でのことである。その箇所を抜粋してみる。

「当時、三浦朱門・曽野綾子の結婚式が行われ、石浜も私も出席した。
フルコースの料理が出されはじめ、ボーイが肩にのせるようにして運ぶ銀盆の上に、ずらりと伊勢エビが並んでいた。その大きなエビが、それぞれの皿に取り分けられるのだが、石浜と私の皿だけには舌ビラメの料理が出された。
花ムコの配慮で、ありがたいのだが、周囲は奇異な眼で私たちを眺めている。」

盛大な結婚式の様子がありあり伝わる記述であるが、私は彼等二人のエビ・カニアレルギーの話として楽しく読んだ。しかし今回ふっと「そもそも三浦の結婚式は何時のことだったのか」気になった。以下のことがネットで知れた。

・三浦さんと曽野さんは昭和28年に結婚。

私が『贋食物誌』を再読でオヤオヤッと感じたところ、
どうして「花婿の配慮」なのだろうか、そしてなぜわざわざ「花ムコ」とカタカナ書きにしなければならないのか。同じ第三の新人と目されることもある花嫁曽野は、三浦の友人二人のエビ・カニアレルギーについては無知だったということなのか。知っていればエビカニ料理は初めから除外しておけばいい。

・曽野 綾子(その あやこ、1931年(昭和6年)9月17日 - )
1934年、大森区田園調布に移る(以後三浦朱門と結婚後も同所に居住)。
22歳で文学的アドバイザーでもあった三浦と結婚。

三浦朱門は結婚後、一人娘だった曽野綾子の家に同居の入りムコ状態?、これではまるでサザエさんではないか。私が再読し疑問に感じたことが少し透けてみえてきたような気がしてきた。

魚咥野猫 追尾為捕
疾駆裸足 陽気蠑螺
皆人哄笑 太陽苦笑
東芝赤字 本日晴天

しかし昭和28年、ここは一旦、吉行石浜などは招待客の数のうちにも入らない豪華絢爛な結婚式だったということにしておくべきなのだろう。

 

Re: 訃報

 投稿者:  投稿日:2017年 2月12日(日)07時40分3秒
返信・引用
  > No.1510[元記事へ]

マキさんへのお返事です。


> 私の所有する「とにかく吉行淳之介*愛蔵版*」では、「盛夏」の日付は「一九四五・八・六」となって(修正されて)います。ちなみに、「吉行淳之介初期作品集」(冬樹社)では、「盛夏」の日付は「一九四五・六」となっていて、雑誌版は「初期作品集」をそのまま持ってきたんだろうと思います(ちなみに、1945.8.6は長崎原爆ではなく広島原爆ですが)。

マキさんありがとう御座います。
8月6日は広島、それはご指摘どおりなのですが、詩「盛夏」は東大の芝生に寝転んでいて、二匹の蝶がもつれるように天高く舞い上がる。

―――そも蝶々なんぞあんなに高く飛んでいいものだろうか

この2匹の蝶は長崎の友人佐賀・久保を彷彿させるもので、偶然といえば偶然、出来過ぎといえば出来過ぎになるのですが、それが9日のことなのか、6日の光景を9日に詩のかたちにしたのだったか、そんなことを何処かに書いておりました。ただ、まだ友人の死の知らせを聞かぬうちに書いたのは確かなことだったようです。

> 「とにかく吉行淳之介」の「年譜」を今まで見たことはなくて、今確認したら「青山毅編」となっていました。青山さんは、吉行さんの書誌づくりにかけては吉行さん以上の人だから「年譜」は信頼に足ると思います。ただし、編者が面白半分の佐藤氏だからなー、誤植の可能性もあるか。
>
> 「2.12」か「2.21」か、全集版の年譜はどうなっているんだろうか。春になって私がまだ元気だったら図書館に行って調べてみようと思います。


『麻雀好日』の「あれから早5年・・・」には「昭和45年2月」とだけあって、12日とも21日とも書いていない。
『浅い夢』連載中で、毎日新聞学芸部からの要請でその時の様子を書いている、というのですが、日付まではどうか。ただ、
「ある文学全集のうちの私の巻ができるところだったので無理に頼んでその年譜に、このことを書き加えて貰ってあるから」とあります。
昭和45年となれば河出書房の日本文学全集第22巻がそれに該当しそうです。そしておそらくこれが決定打と考えてよいのではないでしょうか。
15日と23日みたいな違いでなく、1と2ふたつの数字の並び違いですのでおそらくどちらかの誤植でしょうね。

マキさん春まで頑張って下さい。といっても暦はもう春でありまするが。
こちとら、『浅い夢』でもボチボチ繰ってみます。
 

Re: 訃報

 投稿者:マキ  投稿日:2017年 2月12日(日)05時25分18秒
返信・引用
  河さんへのお返事です。

> マンズは数字が黒で満の字が赤であります。以下参照;
> 私は、『とにかく、吉行淳之介。』(「面白半分」雑誌版)で憶えているもので、
> 盛夏」という詩の日付けが、“一九四五・六”、「盛夏」は長崎原爆投下の日でなければならない
> (私も、例によってこんなこと書いている場合じゃないんだが・・・)

河さん、お忙しい中長文のレスありがとうございました。

おっしゃるとおり、「マンズは数字が黒で満の字が赤」でありました。もう何十年も麻雀してないので、マンズは黒一色と思っておりました。ご指摘ありがとうございます。

私の所有する「とにかく吉行淳之介*愛蔵版*」では、「盛夏」の日付は「一九四五・八・六」となって(修正されて)います。ちなみに、「吉行淳之介初期作品集」(冬樹社)では、「盛夏」の日付は「一九四五・六」となっていて、雑誌版は「初期作品集」をそのまま持ってきたんだろうと思います(ちなみに、1945.8.6は長崎原爆ではなく広島原爆ですが)。

「とにかく吉行淳之介」の「年譜」を今まで見たことはなくて、今確認したら「青山毅編」となっていました。青山さんは、吉行さんの書誌づくりにかけては吉行さん以上の人だから「年譜」は信頼に足ると思います。ただし、編者が面白半分の佐藤氏だからなー、誤植の可能性もあるか。

「2.12」か「2.21」か、全集版の年譜はどうなっているんだろうか。春になって私がまだ元気だったら図書館に行って調べてみようと思います。
 

Re: 訃報

 投稿者:  投稿日:2017年 2月11日(土)14時42分48秒
返信・引用
  > No.1508[元記事へ]

マキさんへのお返事です。

> 『私の文学放浪』(講談社文芸文庫)の「年譜」では、「1970年2月21日、赤坂の旅館”乃なみ"での麻雀で九蓮宝燈を和了る(あがる)。」とあります。「私は一列に並んだ赤い万子の粒」に、「万子って赤かったっけ(白地に黒字のはず)」と気になって調べてみました(「一列に並んだ赤い」から筒子の九蓮宝燈だったのかなと思って)。
>
> 2.21の方が吉行さんぽいと思うのですが、どんなもんでしょう。

早速の返信ありがとう御座います。
マンズは数字が黒で満の字が赤であります。以下参照;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E9%9B%80%E7%89%8C

なお、九蓮宝燈は本来厳密には萬子の役で、それに対応するのがそれぞれ、筒子の大車輪、索子の緑一色、と私は憶えています。しかしどれも滅多にできる役ではないので、筒子、索子問わずというルールもあり、吉行さんは何でやったんだったか、ソウズの八索をツモッて和了ったという記憶もあるのですが・・・。

それはさておき和了日が2月21日ですって・・・、そうだったらマイッタたなあ。
私は、『とにかく、吉行淳之介。』(「面白半分」雑誌版)で憶えているもので、誤植なのかもかもしれないのです。
というのも、「盛夏」という詩の日付け(作成日と思われる)が、“一九四五・六”、「工場の窓から」が“一九四四・八・九”となっている。後者は知らないですが、前者「盛夏」は長崎原爆投下の日でなければならないのであって、明らかに不備と思われるのであります。

「自筆年譜」というものから「九蓮宝燈と天和の記述を削除してもらった」といったエッセイを読んだ記憶もあって、最近(といっても今は昔)の年譜には載っていないのが通常になっていますよね。
でも、「文学放浪」にそう書いているのなら、21日が正しいんだろうなあ。
あーあ、今まで何を憶えていたのか、ナミダナミダであります。

うん?「文学放浪」の中でなく、講談社文芸文庫の年譜?、それって最近ですよね。目まで悪く頭も混乱してきた。
(私も、例によってこんなこと書いている場合じゃないんだが・・・)



>
>
>  
 

Re: 訃報

 投稿者:マキ  投稿日:2017年 2月11日(土)10時39分9秒
返信・引用
  河さんへのお返事です。

> > 河さんご苦労様でした。私にはとても無理です(笑)。
> マキさん、お忙しそうで(お仕事順調なるや)なによりです。

河さん、さっそくのレスありがとうございます。

「私にはとても無理です(笑)。」と書いたときは、「体力的にとてもムリ」の気持ちでした。正確な記述を心がけなければと反省しました。

ご心配していただいた「仕事」の方はピンチです(涙)。「日々すれすれ」の状態はいつまで続くのでありましょうか。(笑い)としたいところですが、「笑いごとではない」のがつらい。

くだんの「麻雀放浪記」は、双葉社版のペーパーバックで読みました。私も色川武大と阿佐田哲也が同一人物だとは、吉行さんとの対談を読むまで知りませんでした。

> 昭和45年2月12日(といって今日ではなかった)、吉行さんは九蓮宝燈という大役満を和了したのであり、毎年豆からチョコレートの時節になると、私は一列に並んだ赤い万子の粒を思い出すのであります。

『私の文学放浪』(講談社文芸文庫)の「年譜」では、「1970年2月21日、赤坂の旅館”乃なみ"での麻雀で九蓮宝燈を和了る(あがる)。」とあります。「私は一列に並んだ赤い万子の粒」に、「万子って赤かったっけ(白地に黒字のはず)」と気になって調べてみました(「一列に並んだ赤い」から筒子の九蓮宝燈だったのかなと思って)。

2.21の方が吉行さんぽいと思うのですが、どんなもんでしょう。




 

Re: 訃報

 投稿者:  投稿日:2017年 2月11日(土)07時47分17秒
返信・引用
  > No.1506[元記事へ]

マキさんへのお返事です。

> > ここに辿りつくまでに、久しぶりに当たったエッセイ集で色々目に付きついつい時間を費やした。
>
> 河さんご苦労様でした。私にはとても無理です(笑)。


マキさん、お忙しそうで(お仕事順調なるや)なによりです。

私がつい寄り道したのは、乏しい書棚に「麻雀放浪記」4冊の角川文庫が残っておりまして、その理由は「坊や哲」が面白かったというのは勿論ながらもう一つ、その「青春編」の腰巻に吉行さんが一文書いている。それは、
「これだけ面白い悪漢小説・教養小説(?)にはめったに出会えるものではない。」

「解説」の中の一節であろうと考えるのが普通ですが、(一)「青春編」文庫解説は畑正憲、以下(二)「風雲編」江國滋、(三)「激闘編」古川凱章、(四)「番外編」山本容朗の各氏で吉行淳之介の名前はない。

それではこの一行だけを書いたのか、そんなはずはないと『懐かしい人たち』を繰ってみていたところだったのです。
もちろん作者阿佐田哲也が色川武大氏であることはご承知のことでしょうが、文壇で雀豪と名高い藤原審爾を「旦那芸としては一流である」と評したことは書いてあるが、あの一行はない。
ただ、「『麻雀放浪記』の頃、色川武大との対談に引っ張り出された」とある。
それで対談集を漁り始め、「恐怖・恐怖対談」に収録されていたものを見つけ再読した。
(ナルコレプシーの症例が多く綴られており、当時あまり面白くない対談と感じたが歳を獲ったせいなのか、該当する兆候が自分にないか注意深く読んでしまった。)

それにしてもあの一行がない。三浦朱門氏の訃報で「緑色の自動車」というエッセイを探していてそれを見つけた。(このあたりは、三浦氏が第三の新人にカウントされたおかげではあるまいか。)

「『麻雀放浪記』推薦」という一文の中の一行、初出一覧で確認すると、昭和54年9月30日角川文庫ジャケットのために書かれたもの、らしい。
(短文ではあるが一行だけではない。)

しかしジャケット?(これが正式名称なのか、たしか単行本に巻かれた紙切れを腰巻、腰巻大賞なるものもあったと記憶する、まあ同じものと考えてよいのでしょう。)
文庫の腰巻には吉行さんのほかに畑正憲清水一行五味康祐、各氏それぞれの惹句が載っているのでありますが、“大家”の一文を一行しか採用しないとは角川さんも大したものであります。

と、これでワタクシの積年の閊えは外れたのでありますが、何ゆえ麻雀に拘わったかと申せば、まさに昭和45年2月12日(といって今日ではなかった)、吉行さんは九蓮宝燈という大役満を和了したのであり、毎年豆からチョコレートの時節になると、私は一列に並んだ赤い万子の粒を思い出すのであります。

 

Re: 訃報

 投稿者:マキ  投稿日:2017年 2月10日(金)09時09分15秒
返信・引用
  > No.1505[元記事へ]

河さんへのお返事です。

> ここに辿りつくまでに、久しぶりに当たったエッセイ集で色々目に付きついつい時間を費やした。

河さんご苦労様でした。私にはとても無理です(笑)。

文化庁長官というイメージが強くて、朱門氏には作家という印象はない。

三浦朱門氏は、「第三の新人」に入れてもらって得した唯一の人ではないでしょうか(笑)。
 

訃報

 投稿者:  投稿日:2017年 2月 5日(日)08時28分10秒
返信・引用
  三浦朱門氏が亡くなったという。
「これで主だった第三の新人たちが亡くなり、その位置は改めて検証されるべき」といったことを黒井千次氏が新聞にコメントしている。

私が真っ先に思い出し好きな一文が「緑色の自動車」、
女子大で三浦氏が講演、吉行氏は座談会に引っ張り出され、帰りは三浦の運転する車に乗せて貰う。
三浦の話では、大学までの道順が分からず「みどり色のフォルクスワーゲンに乗ってゆく」と伝えたものの迎えの女子学生の姿が見えない。「みどり色のフロックコート」を着た人物をいっしょうけんめい探していた、という。

「当今、みどり色のフロックコートを着て街を歩いている人物は、サンドウッチマンとその他どういう人物があるだろうか。」
「たまたま、みどり色のフロックコートを着た曲芸師が、わけの分からぬうちに女子大の講堂につれこまれ、サルマタ一枚になって関節をバラバラにはずす曲芸でもやってみせたらおもしろかった、と笑いあった。」

このエッセイを探すまでに苦労した。灯台元暗し「軽薄のすすめ」文庫に収められていた。
ここに辿りつくまでに、久しぶりに当たったエッセイ集で色々目に付きついつい時間を費やした。
それについてはまたのことにしよう。

 

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