teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

  1. 足あと帳(2)
  2. ブランド激安市場 bag53(1)
  3. ブランド偽物_ブランドスーパーコピー激安市場(5)
  4. コピーブランド市場(3)
  5. ルイヴィトン偽物/シャネル偽物bag26.com(0)
  6. グッチ財布製偽ウェブサイト(0)
スレッド一覧(全6)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


Re: 訃報

 投稿者:マキ  投稿日:2017年 8月10日(木)10時56分57秒
返信・引用
  > No.1520[元記事へ]

古本嵐さんへのお返事です。

> 喘息魔:未収録
> S先生のこと:未収録

嵐さん、レス遅れてすいません。

昨日の東京の最高気温は37.1℃と報道されていましたが、
夏バテなぞされていないでしょうか。

幸い、私の方は何とかやり過ごしています。

全集未収録の作品が結構あるんだと思ってビックリしました。

たしか、新潮社版の全集は80年代にでた講談社版の全集が底本になっているはず。

初期の作品は講談社版をそのまま踏襲したと考えていいのかなー。

年齢(とし)をとるとフットワークがきかなくなって困ります(笑)。

 
 

Re: 訃報

 投稿者:古本嵐  投稿日:2017年 7月28日(金)07時36分14秒
返信・引用
  > No.1517[元記事へ]

マキさん、河さん、返信ありがとうございました。

本件につき、近くの図書館で吉行全集から拾い読みしようと
行ってみたら保存庫入りになってしまっていて、後回しに
したままになっています。

治療:第1巻(講談社版)
決闘:第2巻(講談社版)

喘息魔:未収録
S先生のこと:未収録

 

Re: 訃報

 投稿者:  投稿日:2017年 6月 6日(火)17時01分33秒
返信・引用
  > No.1516[元記事へ]

> > 『原色の街』サイン本で気がついたのですが、この「石浜」は「石濱恒夫」でしょうか。
> > 付き合いがあったのですね。


嵐さん、マキさん、お久しぶりです。
忙しくて覗くヒマもなかったうちに嵐さんからの質問、それに丁度偶然にも本日マキさんの丁重な書き込みこれ以上付け加えることもないでしょうが、・・・、
といいつつ書くのが悪いクセ。

『決闘』という短編は、なにやら石浜がモデルとなっていないかと考えたことがあります。
もう一つ、『治療』?『喘息魔』?「S先生のこと」か、短編かエッセイだったかも今はおぼろですが、主人公は平凡なアレルギー、吉行の話はそこそこに、さかんに「そのI君を連れてくるように」急かされる、という内容のヤツ。

最近「娼婦小説集成」とかいう文庫本をみつけまして、そういえば、以前マキさんが書かれていたでしょうか。11篇しかないそうですね。
赤線へ安岡と行った話はどこかに書いてあったと思います。当時カリエス?かなにかで腰にチューブをグルグル巻きにしていてそれでも登楼している。

石浜のエピソードはあったかなあ、と今思案中。
石浜か石濱か、吉行はいつも石浜だった気がするのですが、別人ってことはないでしょうね。
 

Re: 訃報

 投稿者:マキ  投稿日:2017年 6月 6日(火)12時19分17秒
返信・引用
  古本嵐さんへのお返事です。

> 『原色の街』サイン本で気がついたのですが、この「石浜」は「石濱恒夫」でしょうか。
> 付き合いがあったのですね。

嵐さん、お久しぶりです。

『私の文学放浪』(講談社学芸文庫,2004)所収の「年譜―吉行淳之介」によれば、「1952年春、安岡章太郎、三浦朱門、石浜恒夫、秋に、阿川弘之、島尾敏夫らを知る」とあります。

安岡章太郎さんによれば、石浜恒夫氏も市ヶ谷駅前の吉行さんのお宅をたまり場にした作家たちの一人なのでした。

安岡章太郎『良友・悪友』(新潮社,1966.7.20)によれば、安岡さんが、三浦朱門、石浜恒夫と知り合ったのは、安岡さんが吉行さんと知り合う一ヵ月前のことでした。同書、冒頭の「二代目達 三浦朱門と石浜恒夫」(同書,pp.8-22)より引用します。

(引用開始)

私が三浦とつきあい出したのは、ある日、突然、彼から会見を申しこまれてきたからだ。
そのころ私は、まだ短編小説を二つほど発表したばかりだったが、その一つは三浦と並んで文芸雑誌の新人特集号に出たものだったから、私も三浦のことは多少気にしていて、早速、申しこみに応じて、日比谷の喫茶店で落ち合うことにした。(略)

「ご紹介しておきます。これ、石浜恒夫君です。『ギャング・ポウエット』・・・・・。しかし人柄はボクと同じ紳士ですから」
三浦は、ちょっと横をふりむいて、そう説明したまま、またもとにもどって、その男と関係のない話しをつづけた。「ギャング・ポウエット」と馬鹿にスゴんだ題名のついた小説と、その青白い顔の男とは、最初なかなか私の頭の中ではつながらなかった。しかし、話の中途でふと思い出して、
「たしか、あれは織田作の未亡人といっしょになっているという・・・・」
と何の気なしに、三浦に向かって問いかけると、その男は、突然、頭を掻きむしりながら、けたたましい笑い声を発すると、
「そりゃ、それはボクのことや」と、大声で言って、それから「ふーッ」と鼻毛のそよぐほど荒い息を一つもらすと、腕組みしたまま、また黙りこんだ。(略)

私たち三人は、その喫茶店で二時間ばかりも、とりとめのないことを話し合ったあげく、午後の銀座通りを東銀座の方へ歩きかけた。京橋寄りの路地裏に私の友人のやっている小さなバーがあり、そこなら昼間でも店をあけてくれるだろうと思ったからだ。しかし私たちは何も飲んでいなくても、すでに酔い心持だったから、通りがかりの婦人を、あれこれ大声で批評し合ったり、勝手なことをシャベっていた。すると三浦は突然、宣言するように言った。

「いや、いまボクは一人の女のひとのことしか考えられないのです。その人のことを思っただけでも、眼の中にパーっと光が射しこんだみたいで、まわりのものが何も見えなくなるほどなんです」
あまりに唐突に、しかも悲愴なほど真剣な顔つきで、こんなことを言われると、私たちはしばらくドクケをぬかれたように唖然として、立ち止まった。
「いったいそれは何なのだね。人妻かね」と訊くと、
「いや、お嬢さんです。まだ学生で、田園調布の家から聖心の英文科へかよっている」
これは、あんまり月並みな話なので、私はかえって笑い出しも出来ないくらいだった。
すると三浦は、さらに重々しげな口調で、
「あの君たち、いま言った女のひとのことは、吉行淳之介には絶対に秘密にしてください。女のことになると、かれは何を仕出かすかわからない男ですから」
と、いよいよ奇怪なことを言い出した。第一、私は吉行も名前だけは知っていたが、顔もみたことはなく、そのウワサをたったいま三浦からきいたばかりだから、その恋人のことを秘密にするも何もない。それに吉行という男が、どれほど達者な色事師かはしらないが、吉行だけを警戒して私たちの前ではのんきにノロケてみせる三浦の態度も、あまり愉快ではなかった。

それから一と月ばかり後に、私は吉行淳之介と偶然、ある雑誌の合評会の席で顔を合わせた。共通の知人として当然、三浦のことが話題に出たついでに、何くわぬ顔で、
「あいつ、何かフィアンセがいるらしいね」と訊いてみると、
「ああ、曽野綾子さんだろう、『新思潮』の同人の・・・・。三浦のやつ、彼女がいるばっかりに、あの雑誌が自分一人になっても出しつづけると、ガンバっているそうだ」と、吉行は、私よりもよほどくわしい事情に通じていた。(略)

何にしても、私たち三人(安岡、三浦、吉行)は一、二度、顔を合せただけで、ひどく打ちとけた気分になった。――それで、これからこの三人に石浜恒夫を加えて、毎月定期的に集合し、おたがいにセッサタクマしようではないかということになった。(略)しかし、この「セッサタクマの会」は、たしか第一回の会合を七月の或る日曜日、東銀座裏のバーでひらいたきりで、おわってしまった。そのころには何も月に一回、日をきめて会わなくても、十日に一ぺんぐらいは顔を合わせるようになり、やがて十日に一ぺんは一週間に一ぺん、三日に一ぺん、と日増しに会う度数がふえて、もはや連日、集会が行われているのと同じことになってしまったからだ。

(引用終わり)


 

Re: 訃報

 投稿者:古本嵐  投稿日:2017年 5月20日(土)16時05分51秒
返信・引用
  > No.1512[元記事へ]

こんにちは。

河さんへのお返事です。

> しかし昭和28年、ここは一旦、吉行石浜などは招待客の数のうちにも入らない豪華絢爛な結婚式だったということにしておくべきなのだろう。

『原色の街』サイン本で気がついたのですが、この「石浜」は「石濱恒夫」でしょうか。
付き合いがあったのですね。
https://www.kosho.or.jp/products/list.php?transactionid=09cb827f5e5ff756951e1b7c0bfe5d4b660bea81&mode=search&search_only_has_stock=1&search_word=%E5%90%89%E8%A1%8C%E6%B7%B3%E4%B9%8B%E4%BB%8B%E3%80%80%E5%8E%9F%E8%89%B2%E3%81%AE%E8%A1%97%E3%80%80%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3
 

Re: 訃報

 投稿者:マキ  投稿日:2017年 2月15日(水)16時27分28秒
返信・引用
  > No.1512[元記事へ]

河さんへのお返事です。

河さん面白く読みました。

レスを1時間もかけて書いたのに、クリックミスで消えてしまいました。

昭和29年の上期で「驟雨」と「遠来の客たち」が争ったことをからめて書いたのですが残念。

昔の私なら書き直すのですが、今はその体力も根性もありません。

どうぞお赦しくださいませ(笑)。
 

Re: 訃報

 投稿者:  投稿日:2017年 2月14日(火)06時08分53秒
返信・引用
  > No.1506[元記事へ]

> 文化庁長官というイメージが強くて、朱門氏には作家という印象はない。
> 三浦朱門氏は、「第三の新人」に入れてもらって得した唯一の人ではないでしょうか(笑)。


「25年ころ、『真実』という雑誌の小人数定例会があった。それに毎回しゃらくさい文学少女が出ていた。とにかくナマイキで自分では才色兼備のつもりでいるところも腹が立って許せなくなって、ビールの瓶を女の頭の上でさかさにして、ドボッドボッと流したんだ。終始無言というところがミソだよ。女は腰が抜けたように座っていたが、それ以来おとなしくなった。」

以上は山本容朗氏の「エピソード集」に載っているものである。『真実』といえば、散文の処女作「薔薇販売人」が発表された雑誌であるから、昭和23年ごろのことでしょうか。

このエピソードを読んだとき、私は吉行の周りに文学少女がいたことを知った。それでこの女性が誰なのか気になった。
戦後の吉行氏の周りに娼婦以外に女性の影は乏しく、いや、それより私の知識が乏しかったせいもあり、曽野綾子氏の名前しか浮かばなかった。しかしそれは全く根拠のないことである。

後年、「世代」に出入りしていた女性(これは津田塾の岡富久子?、のち出版社勤務だったか)、一緒に連れ込み宿の大部屋に入った女性(これは二行の出典の女性詩人だった記憶)、「廃墟の眺め」に登場する女性など、戦後吉行さんの回りには、いわゆる悪友たちだけでなく文学的女性も結構居たのだと感じたことである。

吉行さんは三浦朱門の結婚式に出席している。それが分かったのは『贋食物誌』「蟹③」でのことである。その箇所を抜粋してみる。

「当時、三浦朱門・曽野綾子の結婚式が行われ、石浜も私も出席した。
フルコースの料理が出されはじめ、ボーイが肩にのせるようにして運ぶ銀盆の上に、ずらりと伊勢エビが並んでいた。その大きなエビが、それぞれの皿に取り分けられるのだが、石浜と私の皿だけには舌ビラメの料理が出された。
花ムコの配慮で、ありがたいのだが、周囲は奇異な眼で私たちを眺めている。」

盛大な結婚式の様子がありあり伝わる記述であるが、私は彼等二人のエビ・カニアレルギーの話として楽しく読んだ。しかし今回ふっと「そもそも三浦の結婚式は何時のことだったのか」気になった。以下のことがネットで知れた。

・三浦さんと曽野さんは昭和28年に結婚。

私が『贋食物誌』を再読でオヤオヤッと感じたところ、
どうして「花婿の配慮」なのだろうか、そしてなぜわざわざ「花ムコ」とカタカナ書きにしなければならないのか。同じ第三の新人と目されることもある花嫁曽野は、三浦の友人二人のエビ・カニアレルギーについては無知だったということなのか。知っていればエビカニ料理は初めから除外しておけばいい。

・曽野 綾子(その あやこ、1931年(昭和6年)9月17日 - )
1934年、大森区田園調布に移る(以後三浦朱門と結婚後も同所に居住)。
22歳で文学的アドバイザーでもあった三浦と結婚。

三浦朱門は結婚後、一人娘だった曽野綾子の家に同居の入りムコ状態?、これではまるでサザエさんではないか。私が再読し疑問に感じたことが少し透けてみえてきたような気がしてきた。

魚咥野猫 追尾為捕
疾駆裸足 陽気蠑螺
皆人哄笑 太陽苦笑
東芝赤字 本日晴天

しかし昭和28年、ここは一旦、吉行石浜などは招待客の数のうちにも入らない豪華絢爛な結婚式だったということにしておくべきなのだろう。

 

Re: 訃報

 投稿者:  投稿日:2017年 2月12日(日)07時40分3秒
返信・引用
  > No.1510[元記事へ]

マキさんへのお返事です。


> 私の所有する「とにかく吉行淳之介*愛蔵版*」では、「盛夏」の日付は「一九四五・八・六」となって(修正されて)います。ちなみに、「吉行淳之介初期作品集」(冬樹社)では、「盛夏」の日付は「一九四五・六」となっていて、雑誌版は「初期作品集」をそのまま持ってきたんだろうと思います(ちなみに、1945.8.6は長崎原爆ではなく広島原爆ですが)。

マキさんありがとう御座います。
8月6日は広島、それはご指摘どおりなのですが、詩「盛夏」は東大の芝生に寝転んでいて、二匹の蝶がもつれるように天高く舞い上がる。

―――そも蝶々なんぞあんなに高く飛んでいいものだろうか

この2匹の蝶は長崎の友人佐賀・久保を彷彿させるもので、偶然といえば偶然、出来過ぎといえば出来過ぎになるのですが、それが9日のことなのか、6日の光景を9日に詩のかたちにしたのだったか、そんなことを何処かに書いておりました。ただ、まだ友人の死の知らせを聞かぬうちに書いたのは確かなことだったようです。

> 「とにかく吉行淳之介」の「年譜」を今まで見たことはなくて、今確認したら「青山毅編」となっていました。青山さんは、吉行さんの書誌づくりにかけては吉行さん以上の人だから「年譜」は信頼に足ると思います。ただし、編者が面白半分の佐藤氏だからなー、誤植の可能性もあるか。
>
> 「2.12」か「2.21」か、全集版の年譜はどうなっているんだろうか。春になって私がまだ元気だったら図書館に行って調べてみようと思います。


『麻雀好日』の「あれから早5年・・・」には「昭和45年2月」とだけあって、12日とも21日とも書いていない。
『浅い夢』連載中で、毎日新聞学芸部からの要請でその時の様子を書いている、というのですが、日付まではどうか。ただ、
「ある文学全集のうちの私の巻ができるところだったので無理に頼んでその年譜に、このことを書き加えて貰ってあるから」とあります。
昭和45年となれば河出書房の日本文学全集第22巻がそれに該当しそうです。そしておそらくこれが決定打と考えてよいのではないでしょうか。
15日と23日みたいな違いでなく、1と2ふたつの数字の並び違いですのでおそらくどちらかの誤植でしょうね。

マキさん春まで頑張って下さい。といっても暦はもう春でありまするが。
こちとら、『浅い夢』でもボチボチ繰ってみます。
 

Re: 訃報

 投稿者:マキ  投稿日:2017年 2月12日(日)05時25分18秒
返信・引用
  河さんへのお返事です。

> マンズは数字が黒で満の字が赤であります。以下参照;
> 私は、『とにかく、吉行淳之介。』(「面白半分」雑誌版)で憶えているもので、
> 盛夏」という詩の日付けが、“一九四五・六”、「盛夏」は長崎原爆投下の日でなければならない
> (私も、例によってこんなこと書いている場合じゃないんだが・・・)

河さん、お忙しい中長文のレスありがとうございました。

おっしゃるとおり、「マンズは数字が黒で満の字が赤」でありました。もう何十年も麻雀してないので、マンズは黒一色と思っておりました。ご指摘ありがとうございます。

私の所有する「とにかく吉行淳之介*愛蔵版*」では、「盛夏」の日付は「一九四五・八・六」となって(修正されて)います。ちなみに、「吉行淳之介初期作品集」(冬樹社)では、「盛夏」の日付は「一九四五・六」となっていて、雑誌版は「初期作品集」をそのまま持ってきたんだろうと思います(ちなみに、1945.8.6は長崎原爆ではなく広島原爆ですが)。

「とにかく吉行淳之介」の「年譜」を今まで見たことはなくて、今確認したら「青山毅編」となっていました。青山さんは、吉行さんの書誌づくりにかけては吉行さん以上の人だから「年譜」は信頼に足ると思います。ただし、編者が面白半分の佐藤氏だからなー、誤植の可能性もあるか。

「2.12」か「2.21」か、全集版の年譜はどうなっているんだろうか。春になって私がまだ元気だったら図書館に行って調べてみようと思います。
 

Re: 訃報

 投稿者:  投稿日:2017年 2月11日(土)14時42分48秒
返信・引用
  > No.1508[元記事へ]

マキさんへのお返事です。

> 『私の文学放浪』(講談社文芸文庫)の「年譜」では、「1970年2月21日、赤坂の旅館”乃なみ"での麻雀で九蓮宝燈を和了る(あがる)。」とあります。「私は一列に並んだ赤い万子の粒」に、「万子って赤かったっけ(白地に黒字のはず)」と気になって調べてみました(「一列に並んだ赤い」から筒子の九蓮宝燈だったのかなと思って)。
>
> 2.21の方が吉行さんぽいと思うのですが、どんなもんでしょう。

早速の返信ありがとう御座います。
マンズは数字が黒で満の字が赤であります。以下参照;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E9%9B%80%E7%89%8C

なお、九蓮宝燈は本来厳密には萬子の役で、それに対応するのがそれぞれ、筒子の大車輪、索子の緑一色、と私は憶えています。しかしどれも滅多にできる役ではないので、筒子、索子問わずというルールもあり、吉行さんは何でやったんだったか、ソウズの八索をツモッて和了ったという記憶もあるのですが・・・。

それはさておき和了日が2月21日ですって・・・、そうだったらマイッタたなあ。
私は、『とにかく、吉行淳之介。』(「面白半分」雑誌版)で憶えているもので、誤植なのかもかもしれないのです。
というのも、「盛夏」という詩の日付け(作成日と思われる)が、“一九四五・六”、「工場の窓から」が“一九四四・八・九”となっている。後者は知らないですが、前者「盛夏」は長崎原爆投下の日でなければならないのであって、明らかに不備と思われるのであります。

「自筆年譜」というものから「九蓮宝燈と天和の記述を削除してもらった」といったエッセイを読んだ記憶もあって、最近(といっても今は昔)の年譜には載っていないのが通常になっていますよね。
でも、「文学放浪」にそう書いているのなら、21日が正しいんだろうなあ。
あーあ、今まで何を憶えていたのか、ナミダナミダであります。

うん?「文学放浪」の中でなく、講談社文芸文庫の年譜?、それって最近ですよね。目まで悪く頭も混乱してきた。
(私も、例によってこんなこと書いている場合じゃないんだが・・・)



>
>
>  
 

レンタル掲示板
/123