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kyokeiさんの「人権って言葉は、なかなか好きなれない」・・に少し動かされてはじめて書き込みさせていただきます。
「同和教育」という言葉も分からない人(分かろうとしない人)には、分かりにくいし、語源もどうかという言葉ですね。(かつて江島修作さんがいた修道大学のように「同和」教育なんて書くとところもありましたが)基本的には、「部落解放教育」にならないといけないし(言葉だけじゃなく、その実践も)、書かれているように「部落差別をなくすための・・」を忘れてはならないと思います。
私自身も正直なところ今学校でいわれている「人権」には、少し違和感があります。「人権教育」ならいい、「人権・同和教育」なら仕方がない、けど「同和教育」はダメだ。・・はっきりいってわけ分かりません。子どもや保護者、地域の実態を見ようとしないでなし崩し的に繰り返される教育行政に対して、「あの人、つい最近まで一緒にやってきたじゃない。なのに・・」という場面も多く、疲労感におそわれることもあります。
「人権」ってあの鈴木某さんも・・「これは人格の・人権の問題です」なんて何ヶ月か前にテレビで何回も繰り返されたように、だれでも使える(人である限り)もののようです。極端な話、差別を肯定するものだって使う(使っている)言葉かも知れません。
しかし、私自身違和感はあっても「人権」という言葉は大切にしていかなければならないし、歴史的に獲得してきた大事なものだと思います。でも現実にその人権が侵されている−集中的に侵されていると言った方がいいかも知れませんが−のは、いったい誰か、といったことを考えれば、行政的にも社会関係においてもすべきことは分かるはずなのにと思います。(市民的権利という言葉を使った方がよかったかな。)
ときたま本県の小森龍邦さんが「江戸から何百年かかって染みついてきた(植え付けられた)もの」(言葉はこの通りじゃないと思うが)みたいなことをおっしゃることを聞く。本当にこの部分については、何百年かかって植え付けられた差別意識が、たかだか数十年の教育によって変わるものだろうか、(確かに変わってきている人や部分は大きく評価しなければいけませんが)と思います。もっと強力に推し進めるべきなのに・・。
もちろん私も「人権教育」ももっと学習しなくちゃ、取り入れるべきものは吸収しておかないとと思う。(あくまでも目的を忘れずにですが。)
とりとめのないことを書いたように思いますが、自己紹介がおくれました。
「ちいさ〜くる」というHPを運営している一人です。
MyHPの中に「人権〜同和教育の視点から」という、本の紹介をしながら自分たちの思いを少しでも表そうという趣旨のコーナーがありますが、この題名、ときどき「人権・同和教育」と素直に読まれる方がいるんじゃないかと思っています。本当の私の言葉に込めた気持ちは、「人権」というものを私たちが行ってきた(行こうとする)「同和教育の視点から」見ようじゃありませんか!というものなんですが。(まあどちらでも解釈する人の自由な思いでいいのですが・・)
あっちこっちいった文章ですいませんでした。
これからもよろしくお願いします。
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/shigekawa/
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